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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 > 著者・佐藤敏幸さんに聞く(上)

佐藤敏幸(さとう・としゆき)さん、1963年石巻市生まれ。東北学院大大学院文学研究科アジア文化史専攻博士課程修了。元東松島市教委生涯学習課文化財班長兼奥松島縄文村歴史資料館副館長。2019年から東北学院大文学部非常勤講師・同大博物館学芸員。

 2022年4月に始まった連載「発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方」が23年12月、計89回で終了した。古代の石巻地方の姿などを、著者の東北学院大博物館学芸員佐藤敏幸さん(60)に聞いた。(聞き手は藤本貴裕)

<盛んな往来 王権の戦略>

-古代の石巻地方はどんな所だったのか。

 「人の往来が盛んな地だった。古墳時代、飛鳥時代、奈良時代に人が非常に動いている。例えば1700年前、災害に遭い人が少なくなった所に、関東などから人が移住してきた。北海道からも人がやってくるなど交流が目立つ。6世紀終わりから7世紀初めぐらいに、関東から王様クラスの人が石巻に来て活躍し、亡くなって古墳に葬られた」 
 「いったん人が少なくなるが、関東から大量に人が移住させられ、ヤマト王権の範囲に取り込まれていく。その過程で地元の蝦夷(えみし)が反乱を起こす。人の移動とせめぎ合いがあるのが石巻の特徴だ」

-移住政策もあった。

 「柵戸(きのへ)と呼ばれる人たちだ。王権は当時、関東の公民をわざわざ北の地に大量に送り込み、新田開発などに当たらせた。『東北、仙台よりも北側を抑えたい、わがものにしたい』という王権の意識が強かったのだと思う」 
 「移住元と移住先に関連性がある。内陸の宮城県大崎に移住するのは群馬や埼玉北部の人たち。石巻周辺は海寄りなので、千葉とか茨城とか、故地、故郷に近いような地域に移住させたのではないか。関東の土器、移り住んだ先での土器の特徴や墓の形を見ると、地域性とつながりが分かる」

-人の移動とせめぎ合いというのは裏を返せば戦略的にも要衝だった。

 「ヤマト王権配下の勢力は古墳時代、一番北は岩手県の胆沢地域まで進むが、いったん阿武隈川以南まで範囲が後退する。しかし、王権は再び版図を広げようとする。なぜか。隣国の隋や唐の帝国があまりにも強大で、自分たちの国の範囲を早急に確定させなければいけないと思うようになった。安全保障上の背景から、人を移動させ、版図を広げるという方針になったのだろう。東アジア情勢を含め、石巻地方は国の施策の影響を強く受けていた」

-石巻は北上川、広い平野部などが地理的特徴だが、当時はどうだったか。

 「古墳時代から奈良時代くらいまで、海岸線は今より大体2キロぐらい内側にあった。北上運河から国道45号、JR仙石線の辺りに海岸線があった。何回か津波の被害を受けたが、かなり内陸までやられたと考えられる。ほかに地震、大雨、土砂災害などで被害を受けたことが多々あったようだ」 
 「東日本では古墳時代中期後半から後期前半に非常に寒冷な時期があった。関東、東北、特に仙台平野で遺跡の数ががっくり減る。人々は違う地域に移動したのだと思う。石巻地方は北上川、江合川といった河川の大氾濫などの影響も受けやすかった」

-牡鹿郡を統治する役所「牡鹿郡家(ぐうけ)」、蝦夷支配の城柵「牡鹿柵」が東松島市赤井に置かれた理由は。

 「飛鳥時代、赤井官衙(かんが)を造る段階で人をたくさん移住させた。千葉県の上総地域、九十九里周辺から一族が集められ、移住させられた。九十九里の前後には張り出した丘陵がいくつかあり、東松島の矢本の地形に非常に似ている。その墓所が矢本横穴。今も海が見える。千葉から移住した人は故地が見える、海が見える所に墓を作りたかった。古里を意識し、定住する場所を決めたのではないか」 
 「仙台の郡山遺跡はランクとしては陸奥の国の中心の役所跡。後に多賀城に移る。赤井官衙や大崎市の名生(みょう)館(だて)官衙など城柵と呼ばれる幾つかの柵は出先機関として、その地域を治めた」

-連載では律令制の中で、石巻地方の人間が中央で活躍したという記載が印象的だった。地方からの登用例は各地にあったのか。

 「地方から役人見習いとして平城宮や藤原宮に何年か勤め、地元に帰る例はよくあったようだ。ただ、都に残って丸子氏(後の道嶋氏)は貴族にまでなった。そういう例は全国的に3、4人しかいない。地方出身者で国司クラスになるのは数人しかいない。一番位が上がったのは吉備真備。参議まで上り詰めた。その次のぐらいに活躍したのが道嶋嶋足。めったにあることではない」

-王権が石巻地方を平定するために柔軟な考えを持ったのか。懐柔するために引き上げたのか。

 「一つは都で政府を転覆するような事件が起きた際に活躍できた。太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))が復権を狙った藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の時、仲麻呂の息子訓儒麻呂(くずまろ)が天皇の御璽と駅鈴を持って逃げた。奪い返したのが道嶋嶋足と坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)。2人は活躍し一気に位を上げる」 
 「続日本紀に嶋足は馬に乗って弓矢が得意だという記録が残る。牡鹿、石巻地方でも多分馬に乗る訓練、矢を射る訓練をしていた。力もあったのだろうが、時勢に乗ったのだろう。牡鹿という地域が国が広げたい範囲であったので、地元の力も利用しようというのが王権の考えだった」 
 「東北学院大の熊谷公男名誉教授が市史『石巻の歴史』(全10巻)で詳しく書いているが、丸子氏(道嶋氏)はもともと上総の中産階級、有力農民層だったようだ。丸子は上総の中でも地域を統括する『丸子連(まるこのむらじ)』、次の農民層階級が『丸子』、その下に『丸子部(まるこべ)』とランクがある。『連』の付かない無姓(むかばね)層が丸子氏なので、上総東部の伊甚(いじみの)屯倉(みやけ)という天皇直轄地の出身で、中産階級、有力農民層だった」

上総(千葉県)東部の伊甚屯倉からヤマト王権の命によって移住させられた丸子氏の動向(7世紀中頃~8世紀)

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