東日本大震災 復興と詩と13年目の決心(2) 子どもの目 不条理あらわ、胸を刺す
惨禍の体験は多感な中学生の胸に重く、暗く沈んだ。心の整理を詩に託しながら、行きつ戻りつ。消化し切れない私の気持ちを置いてけぼりにし、復興を急ぐ街。東日本大震災から13年。ようやく決心が付いた。やっと語れる。次世代につなごう。街と生きよう。石巻市のぞみ野の会社員佐藤ゆりかさん(27)が口を開く。(相沢春花)
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東日本大震災直後、被災地では人間のエゴがあちこちでむき出しになっていた。
震災当時、石巻市湊中2年で避難所暮らしをしていた佐藤ゆりかさんは「ずる賢い人が幸せに生きていくんだな」と思った。
2次避難先は石巻北高の体育館。高齢者の所持品を平気で盗むのも、順番を守らないのも、大人だった。慣れない避難所運営に奔走する大人がいる中、子どもの目に「冷静に、みんなのために動く人がばかみたい」と映った。
本能のままにぶつかり合う大人は滑稽だった。取っ組み合いをして床をごろごろ。「猫みたいなけんか」。何度も大人を呼びに行き、止めてもらった。
海水が引かなかった最初の避難先は自宅近くの湊中。2日間、陸の孤島になった。約1500人が避難し、物資が不足。食事の配分にトイレの清掃。教員が担っていた。
ぎりぎりの生活。気が立った避難者の不満は教員にぶつけられた。
「同じ被災者なのに」。自分のことだけでなく「隣の命」のことも考えてほしい。子どもながらにそう思った。
最大被災地の石巻は、一様ではなかった。食うや食わずなのに、内陸ではきれいな服を着た人や、当たり前に走る車があった。
震災から約2カ月。ようやく授業が再開した。避難所だった石巻北高から、湊中が間借りしていた石巻中まで通い始めた。日常を取り戻そうとした。
「いつまで被災者ぶってんの」
家が無事だった吹奏楽部員の言葉が突き刺さった。大会が近く、自主練習が必要だった。「家で練習すればいい」。いつもなら当たり前の部員からの提案だったが、避難所暮らし。おじいちゃん、おばあちゃん、みんながいる。被災の度合いが違う生徒同士の心に溝ができていた。
震災が地域や人にもたらした多くのひずみ。日常が崩れた時、張り詰めた精神状態での人々の振る舞い。子どもの目には、社会の矛盾や理不尽さが際立って見えた。自然の猛威と同じくらい、衝撃的に映った。
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