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わいどローカル編集局 > 釜(石巻市)

住宅や工場が立ち並ぶ釜地区。震災後は災害公営住宅が整備された

 「わいどローカル編集局」は石巻地方の特定地域のニュースを集中発信します。16回目は「石巻市釜地区」です。

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製塩の釜場、名に残す

 かつては入り江が広がり、潮干狩りを楽しむこともできたという石巻市釜地区。石巻工業港に面して木材加工や飼料製造、運輸業などの工場と倉庫が数多く立地する。

 「石巻市上釜地区郷土誌」によると、「釜」という地名は北上川改修を手がけた川村孫兵衛重吉が製塩の釜場を築いたことに由来し、地域の総称として現在に残った。釜場は石巻港湾合同庁舎の辺りにあったとされる。

 釜地区を含む同市大街道地区は牡鹿原と呼ばれていた。戊辰戦争後、旧仙台藩士族の授産政策の一環で開拓事業が行われ、入植者を募って荒れ地の開墾が進められた。

 第2次世界大戦後は工業振興を図るため、工業港開発が始まる。建設工事を経て1968年に完成すると、木材製品や食品、飼料、鉄鋼、造船などの企業が進出。その後は港湾区域の拡大や防波堤整備が行われた。

 東日本大震災では、立地企業の工場も背後地に密集していた住宅も津波で壊滅的な被害を受けた。一部のエリアは災害危険区域となり、移転を余儀なくされた住民らが住む災害公営住宅が整備された。

孫兵衛ゆかりの史跡、点在

川村孫兵衛重吉夫妻の墓所。左に重吉、右に妻・お福の墓が並ぶ

 釜地区は、北上川改修で石巻市に名を残す川村孫兵衛重吉との関係が深い地でもある。

 石巻市史によると、孫兵衛は長州阿武(現在の山口県萩市)で生まれた。仙台藩の家臣として伊達政宗に仕え、当時洪水を繰り返していた北上川の改修工事を計画したとされる。上釜地区郷土誌によると、1622年から26年にかけての北上川改修のほか、開港や鉱山開発にも携わったという。

 同市中浦2丁目には孫兵衛の菩提(ぼだい)寺である普誓寺がある。普誓寺は政宗の息子である2代藩主忠宗が孫兵衛を訪ねてその苦労をねぎらったことに孫兵衛が感激し、当時の家を解体して建て直した寺だといわれる。完成する前に孫兵衛は亡くなったが、孫兵衛の妻お福と長女の婿養子の2代孫兵衛元吉が孫兵衛重吉の遺志を継いで完成させた。

 普誓寺から西北の方角に孫兵衛夫妻の墓所も存在する。孫兵衛の功績をたたえて夏に行われる石巻川開き祭りでは、前夜祭として供養祭などが行われ、墓石に手を合わせる観光客もいる。

 また墓所の西側には重吉神社がある。1915年の大正天皇即位の大典で、宮内省が全国の先覚功労者に対して特旨贈位を行った際、孫兵衛は「正五位」を贈られ、その功績をたたえるために建てられた。

 普誓寺をはじめ墓所、神社は東日本大震災で被災したが、2016年に墓所、17年に神社、23年に普誓寺が再建された。

 普誓寺では「地元の方は先祖が孫兵衛のお世話になった人もいるだろう。人柄に刺激を受けて人々が団結し、北上川改修につながった。その大恩人として地元の誇りに思ってもらえるとうれしい」としている。

宮城県沖地震と東日本大震災で被災し、2度再建された普誓寺
2017年に再建された重吉神社

かつての特産「釜梨」 昭和の食糧難、地域を潤す

 明治時代から釜地区で栽培され、名産品として知られた梨。現在畑は姿を消したが、「釜梨」と呼ばれ栽培が盛んだった歴史の名残を感じられる場所がある。

釜小校庭に立つ釜梨の石碑。背後にある梨の木には白い花も咲いていた
校章が刺しゅうされた校旗を持つ釜小の松川忠孝校長(右)ら。梨の花が図案に採用されている

 石巻市釜小の校庭南西側に、釜梨の由来を伝える石碑が立つ。「梨のふるさと 釜」と刻まれ、2016年に建立された。石碑近くには1本の梨の木があり、春には白い花が咲き、秋には小ぶりの実がなるという。校木は梨で、校章も梨の花が図案となっている。

 石碑の碑文などによると、江戸時代末期に石巻に根を下ろした下野国塩谷郡荒井村(現栃木県矢板市)出身の井上吉兵衛が、地域に梨栽培を取り入れた。荒れていた土地の開墾を志し、下総国東葛飾郡八幡村(現千葉県市川市)から長十郎梨を移植したのが始まりとされる。

 明治に入り、井上は旧仙台藩士細谷十太夫直英と土地の開墾に着手。砂地で梨栽培に適していたため、釜・大街道一帯に梨園が広がった。昭和の食糧難時代に全盛期を迎え、県内外に広く流通した。栽培は利府や矢本などにも広がったという。

 釜地区で生まれ育った山内養一さん(73)=石巻市門脇=は、両親が梨を育て、母が行商していた。前日に収穫した梨をリヤカーに積み、早朝に出発して渡波地区へ売りに行く。ナスやキュウリ、ダイコンといった野菜も一緒に積み込んでいた。

 「当時は道の舗装もされていなかった。渡波までリヤカーで売りに行っていたのは今思うと大変なことだ」と山内さん。「どこの家でも梨を作り、梨と言えば釜梨だった。みずみずしくて甘く、当時は食べる物がなかった中でよく食べていた」と懐かしんだ。

 1965年以降は石巻工業港の開発とともに地区内の都市化が進み、梨園は園芸作物に転換され減少。今では生産販売の梨園はなくなったという。

梨の行商について語る山内さん(左)と妻の幸子さん

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 小笠原新聞店大街道支店と連携し、及川智子、渋谷和香の両記者が担当しました。次回は「石巻市鹿又」です。

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