閉じる

滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第2部 少年期編(2) 水産への憧れ 友人の兄の影響も

 私の父は元軍人で戦後は教員を育成する学校で躰道や剣道を指導していた。教え子が毎日家に来て、遊んだり酒を飲んだりする光景があった。みんな貧しい中でも飲みに集まるので、もてなすために酒とつまみを近所に買いに行っていた。

 飲み会が始まると家の中で私が一番年下のため、やかんに一升瓶のお酒を入れて熱かんにして出すということをしていた。

 多いときには10人ぐらいいただろう。この時代は子どもがお酒を飲んでも怒られることはほぼない。残った刺し身を食べながらお酒をちびちび口にするのも日常的なことだった。

中学時代は全校で朝礼前に体操をする習慣があった

 中学は水戸一中に進んだ。当時は14クラスあり、1クラスは40~50人はいたはずで、全校生徒数は2000人近くいたと思う。定期的に校庭で朝礼があり、全校生徒が教室にかばんを置いてから外に集まって体操をする習慣もあった。

 部活動は今と同じように、バスケットボールや剣道、テニスなどそれなりに種類があったが、体育館がなかったので屋内で行う競技もほぼ全てを外で行っていた。

 私は小学生の頃から遊びでやっていた野球を選んだ。野球は大きい大会があり、遠征で遠出ができた。目標を設定しやすかったのも大きい。

 全校生徒の数が多ければ当然、野球部の部員も多い。各学年でチームがつくれるので、大会には3年生が出場するのが当たり前。1年生は球拾いや声出しばかりだった。肩を壊すからという理由で水泳は禁止。練習中は水を飲んではいけないといった決まりもあった。

 ポジションは観客席に近く応援団の姿もよく見える三塁手をやりたいと思っていた。花形的なポジションで憧れていたが、先輩の指示で、守れる選手が少なかった捕手にコンバートされることになった。

 冬はトレーニングの一環で、水戸市にある千波湖の回りを走った。1周4キロはあったかもしれない。近くには100段近い階段があり、捕手は投手を背負って階段を上らされた。

 今となってはすごい人から指導してもらったこともある。立教大やプロ野球国鉄スワローズで監督をした経験がある砂押邦信さんが私の中学を訪問し、練習を見てもらった。

 砂押さんは立大監督時代に長嶋茂雄さんを育てた人物として知られる。私もアドバイスを受けてボールの握りが変わり、送球が良くなった。得意ではなかった打撃も手首の使い方を変えた方がいいと教えてもらったことを覚えている。

 その後、私は膝を悪くしてしまい、3年生になる前に野球は辞めてしまった。それでも、後に始めることになる相撲の基礎につながっていたのではないかと思うところもある。

 当時は自宅にテレビがあるわけではなく、娯楽もほとんどない。強いて言えば映画館に行くことだった。時代劇のような作品が中心に上映されていたのだが、私は合間合間で流れるニュース映画に関心があった。

 時事問題が中心で、海外のことを知ることができた。外交官や水産関係の話題に興味を持ち、その頃は「どうすれば外国に行けるのか」などと考えるようになっていた。

 水産関係の仕事への憧れは友人の兄の影響もある。中学2年の時、水産大学を出たという兄が捕鯨船に乗り、家に帰ってくるときには鯨の缶詰めや肉をお土産として持ってくるんだという話をよく聞かされた。

 その話をうらやましく感じていたことも、将来的に水産関係の仕事に就くことになるきっかけの一つだったのかもしれない。

中学3年のクラス写真。当時は1学年に14クラスあり、生徒数も多かったという

関連リンク