滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第2部 少年期編(4) 過酷だった学校行事「歩く会」
進学先に水戸一高を選んだのは、中学2年生ごろから東京水産大(現東京海洋大)に行きたいという思いを強く持っており、大学進学のために進学校に行きたかったからだ。家族や親戚に教員が多い家庭環境もあり、大学に進むのが当たり前という考えもあった。
自宅から通える範囲には工業、商業、農業と専門的な学習をする高校ばかりで、普通科の学校がほとんどない。少し離れれば土浦一高などのナンバースクールもあったのだが、電車通学になるので選択肢に入れなかった。
水戸一高は勉強に厳しく、落第制度があった。前期のテストの評価(1~5段階)+後期の評価を2倍して3で割る。平均の数値を四捨五入して2以下は成績不良で進級できないというものだった。
私は勉強は好きではなく、部活もしていたので自習はほどほど。それでも、学年での順位は全体の真ん中ぐらい。同級生が落第しないように、テストの時に手助けをすることが度々あった。
当時は進路指導や面談と呼ばれるものはない。担任にも「○○大学に行こうと思う」と伝えることもなく、希望する大学に合格できそうかは高校が公開している卒業生の成績表を元に判断していた。
2年生になると理系か文系を選ぶ。私は理屈抜きに物事を覚えるのが嫌いで、元々数学と理科が好きだったため理系に進んだ。
3年生最後の相撲部の大会が終わり、夏からが受験勉強本番。しかし、受験生でイメージするような深夜まで机に向かったり、図書館で勉強に励んだりした記憶はない。
水戸一高から東京水産大に進学している先輩は一定数いて、珍しいことではなかった。勉強に打ち込んでいる同級生の中には、京大や東大に進む人もいた。
水産大の試験は国語、数学、社会、英語、理科の5科目。社会は世界史、理科は物理と化学を選択した。遠方の受験者には合格発表の日に電文が届くようになっていた。中身に書いてある合格を意味する「サクラサク」と不合格の「サクラチル」で判断していた。
合格を確認した数日後、大学の寮に入るため荷物を送った。当時は引っ越し業者はない時代。貨物列車で目的地まで運んでもらっていた。
水戸一高は勉学中心だったが、学校行事も印象深い。中でも、全校生徒が70キロ前後を走破する「歩く会」という過酷な伝統行事があった。毎年10月、全校生徒が学校から70キロ離れた3カ所のスタート地点を出発し、歩いて戻ってくるというものだ。
1日目はクラス単位で歩く団体歩行、2日目は各自のペースで歩く自由歩行で、団体歩行のときにクラスごとののぼりを立てて歩く姿は、その季節の風物詩だ。OGの作家、恩田陸さんの出世作「夜のピクニック」でも有名になった。
学園祭も出し物や校庭でのダンスなどがあって盛り上がるが、3年時の担任は受験前だったので参加に消極的だった。私は「受験前だからこそ思い出づくりとして参加すべきだ」と訴え、準備期間や費用をかけずにできる仮装行列をした。
高校生の頃に感じたことは、自身の成長のためにはライバルの存在が必要だということだ。社会に出ても切磋琢磨(せっさたくま)できる相手がいないと伸びない。企業も同じで、独占しているだけでは発展せず、上を目指せなくなると思っている。
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