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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第3部 水産大時代編(1) 楽しく過ごした学生寮生活

大学寮の部屋で勉強する須能さん

 東京水産大(現東京海洋大)の漁業科に入学したのは東京五輪があった1964年。合格後、入寮手続きを行い、寝具類を母親とデパートで購入。上水戸駅からキャンパスがある品川に行く貨物列車で学生寮「朋鷹寮」に送った。

 寮は大学の敷地内にあり、海軍の経理学校を改修した建物だったそう。部屋も教室だったところをそのまま使っていたらしく、広かった。1部屋を1~4年生計8人(各学年2人ずつ)で使っていたはずだ。

 清掃は1年生が行う。自分たちの部屋だけでなく、廊下や階段、トイレ、洗面所といった公共の場所も担当し、きれいにできていないと寮の厚生委員からやり直しを命じられる。冬は部屋のだるまストーブに使う石炭をもらいに行くなんてこともあった。

 当時の家賃は1カ月5300円。日曜日の夜以外は3食出ていたので毎日の食事に困ることはなかった。朝食は麦飯にみそ汁、漬物程度。納豆がたまにあるくらいで、昼や夜にそれらに加えて煮魚などが出る。

 寮では部屋対抗で朝食を懸けたソフトボールをよく行った。負けたチームが学生食堂でとんかつ定食などの食事をおごるというルール。私は中学時代野球部だった経験もあり、各部屋からスカウトされ、負けた記憶はない。

 金欠で食事ができないなんてことはなかったが、相撲部に入っていたので、当然、腹は満たされない。夕食後は「北斗」という飲食店でホットドッグ、煮込みうどん、おにぎりなどを食べてから寮に戻ることもあった。

 その店はおじいさんとおばあさんで営んでいて、私は特にかわいがってもらっていた。自宅に招かれることもあり、卒業後も親交が続き、おばさんの100歳の誕生祝いに同級生と参加したこともある。

 学生の頃の品川には大井競馬場、工場、港などがあっても、どこか殺伐としている雰囲気があった。私は水戸から東京に上京してきたという感覚を持てずにいたので、1年生の時から講義のない日は銀座、新宿といったきらびやかなイメージの街に足を運んだ。

 歌声喫茶などに行くのが好きでドリンクを注文して友人と長時間いた。「北上夜曲」「雪山賛歌」といった曲を歌ったのを覚えていて、大人になり、石巻に来た時に北上川があるので、学生時代を思い出し、どこか身近に感じた。

 寮では酒盛りも頻繁にある。私のいた部屋は運動部中心のたまり場。町には食肉処理場があり、頭肉(牛、豚)が1キロ150円ほどで売られていたので、誰かが数キロ買ってきては、だるまストーブの上で焼いて、酒を飲みながら食べるのも楽しみの一つだった。

 学生生活では外で遊んだり、飲んだりするだけでなく、学年が上がると後輩に食事をおごるようになる。実家から寮の家賃含め毎月1万5000円送られていたが、それとは別で2カ月に1度、本代が欲しいと伝え、さらに同じ金額を送ってもらっていた。

 さらにアルバイトもしていて、自分で探すのではなく、寮に届く募集から選ぶ。基本は早い者勝ちで、貨物船で海外から運んできた羊肉を別の船に積み直す仕事をはじめとした肉体労働の求人が多い。家庭教師もしたこともある。

 大学生活は先輩後輩という上下の関係性は強く感じることは少なかった。漁業研究会というものに所属していたが月に数回集まるぐらいで、飲み会が中心。兄弟で過ごしている雰囲気が大学全体にあったと思う。先輩が威張ることもないので、後輩も意見が言いやすい環境だった。

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