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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第3部 水産大時代編(2) 海難事故教訓、伝統儀式で心身鍛える

遠洋航海実習に向かう先輩たちを見送る際に行っていた伝統儀式のスタンバイ
1965年の全日本大学野球選手権でスタンバイを披露する応援団。須能さんは団長として学生を束ねた

 東京水産大(現東京海洋大)には、伝統儀式「スタンバイ」があった。水産大の前身水産講習所の練習船「快鷹丸」が沈没した際、浸水する海水をくみ出した動作を、「快鷹丸殉難歌」に合わせて、全員で現して体を鍛えるもの。全員制服制帽で、遠洋航海の実習に向かう先輩たちを見送る際に行っていた。

 入寮してから数日後にスタンバイ委員の2年生から教わる。ほかにも「ストーム」と呼ばれる上級生による「蛮行」もあった。

 ストームは夜中の2時ごろに突然、寮の放送で全員集合が掛かる。すぐにベッドから起きてグラウンドに集合してスタンバイの練習などが始まる。

 私は乗船希望で、海難事故を想定の訓練と理解していたため、深夜に起こされることに矛盾を感じなかった。しかし、製造学科や増殖学科で運動部に入っていない仲間には理解し難いらしく、1年生の間に10人以上が退寮してしまった。

 ストームも私が入学する前から伝統のように残っていたが、ほとんどは遅くまで酒を飲んだ先輩の悪ふざけで始まる。学年末試験が間近に迫った2月の夜にもあり、1年生の間でたまっていた不満が爆発した。

 1年生からは「伝統は尊重すべきだが、試験前にするのはいかがなものか」「下級生への威圧行為ではないか」といった声がほとんどだった。

 私が先輩との交渉役に指名され、食堂で1、2年生全員が対面して話し合いに。同級生からの発言はなかったが、2年生は「自分たちも1年間我慢してきたから多少矛盾があっても忍耐すべきだ」と言われ、平行線のままに終わった。

 その後、3年生にも要望を伝えた。4年生からは「来年のスタンバイ委員のトップは須能がやる。後輩に強制しない」といったことが提案された。

 基本的に大学の人間しか知らないスタンバイだが、当時、野球部が加盟していた東京新大学野球リーグの1部で初優勝し、全日本大学野球選手権への出場が決定。神宮球場の応援席で披露したのが唯一の機会だったと思う。

 リーグは東京商船大、東京学芸大、東京外国語大、都立大、工学院大が対戦相手。水産大は強豪というわけではなかったが、私が2年生の時に全国大会に出た。それ以降、全国への出場はないと記憶している。

 野球エリートがいる大学ではないのだが、主将の辺見紘一さんは仙台二高時代、慶大から誘いを受けるも、実家が石巻市でまき網船をしている関係で水産大に入学。私の高校の同級生や遊撃手にもいい選手がいたため、他の大学とも渡り合うことができた。

 私は大学時代、相撲部だったので同じ運動部である野球部とも親交があった。まわしを着けた状態で練習を手伝い、打撃投手をしたこともある。

 大学選手権の初戦は東海大。大学挙げての応援が決まり、辺見さんから「応援団長となり、応援団も編成してほしい」と依頼された。寮生に声がけし、高校時代の応援団経験者を数人加えた。

 リーダー格は紺のチュニーク制服、1年生は白の制服にして、スタンバイを応援に取り入れた。

 初めてのことだったが、東海大の応援団長があいさつに来てくれたため、エール交換のやり方を調整。試合時の応援もスムーズにいったが、試合は0-6で敗れた。

 試合後、客席のごみを拾うなど清掃活動をしたのだが、翌日の新聞で紹介された。それを知った学長から褒められ、金一封をもらったのを覚えている。

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