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樺太の記憶 子ども時代の戦争体験(上) 降伏後に戦禍 銃持ったソ連兵が連行

幼き日々の体験を語る木村さん

 太平洋戦争末期に地上戦が繰り広げられた日本統治下の南樺太(現ロシア・サハリン南部)。ソ連の占領により、現地で暮らしていた日本人は安住の地を奪われた。石巻市田道町2丁目の元建設会社役員木村仁さん(87)も、生まれ育った地を追われた1人だ。79年前の惨禍と古里への思いを聞いた。(河北新報メディアセンター・庄司尚広)

   ◇

 <1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦。同15日、ラジオを通して日本の降伏が伝えられた>

 玉音放送は自宅で、両親と姉と弟の家族全員で正座して聞いた。詳しい内容は分からなかったが、日本が戦争で負けたことは理解できた。

 その後、父は宿直のため、勤務する真岡町の樺太公立真岡第一国民学校へ向かい、私もついて行った。

 翌朝になると、学校の先生方が「あの軍艦はソ連に違いない」「これはどういうことでしょうか」などと話していた。湾内の軍艦を見ようと海が見える高台に行くと、艦砲射撃が始まった。頭の上を「ピュンピュン」と弾丸が飛び、体を伏せて近くの防空壕(ごう)に入った。

 <終わったはずの戦争が続いた>

 防空壕はぼろぼろで使い物にならなかったので、学校の正門脇の草むらにある頑丈な防空壕に移ることになった。そこまでの道も腹ばいになって移動した。

 防空壕に7、8人が身を寄せ、ソ連兵に見つからないよう隠れた。夜になり、「トントン」と戸をたたく音が聞こえた。皆がどきっとしたが、先生方が相談して、両手を挙げて外へ出ることになった。

 <恐怖の中、戸を開けると、目の前にソ連兵がいた>

 銃を構えた2人のソ連兵が立っていて、父に近づいてきた。足にゲートルを巻いていた父は、軍人でないかと疑われた。言葉が通じないので、ジェスチャーを交えて必死で説明した。私も父からもらった玩具をポケットから取り出して兵士に見せ、軍人ではないとアピールした。

 父は殺されずに済んだものの、倉庫に連れて行かれ、離ればなれになってしまった。子どもと女性は、港の台船に連行された。防空壕のあった高台を下りるとき、階段には10メートル間隔でソ連兵が銃を持って立っていた。子どもながらに恐怖を感じた。

 父と離れ、不安で仕方なかった時、台船で偶然、叔母に会うことができた。とても喜んだことを覚えている。ほどなく女性や子どもらは解放され、私は数カ月の間、叔母の家に引き取られた。その後、私は両親や私のきょうだいと再会することができた。

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