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樺太の記憶 子ども時代の戦争体験(下) 占領下を生き抜く 物資途絶え、困窮

 <1945年8月、南樺太(現ロシア・サハリン南部)で終戦後も続いていた日本とソ連の戦闘が終結し、南樺太はソ連に占領された。石巻市田道町2丁目の木村仁さん(87)は占領下の真岡町で暮らしていた>

 戦いが終わり、友人と町の中に出ることにした。側溝に1人の日本兵が横たわっているのを見つけた。よく見ると片方の眼球が飛び出し、今にも息を引き取りそうな状況だった。その兵士は「見るな、あっちへ行け」と手ぶりで示した。

 また少し歩くと、防空壕(ごう)の入り口付近に真っ黒に焼け焦げた日本人の焼死体を見つけた。戦争の悲惨さをひしひしと感じた。

 両手を挙げて歩く4、5人の日本兵の後ろにソ連兵が小銃を構えているのが目に入った。すると次の瞬間、ソ連兵が急に発砲し、日本兵は次々と地面に倒れた。戦争に敗れた日本兵は撃ち返すこともできず、なすすべがなかった。

 <食料不足で飢えに苦しんだ>

 戦争で負けたことで、本土からの物資の供給が途絶えてしまった。コウリャンと呼ばれる穀物に豆を混ぜて主食にしてしのいだ。

 ある時、町の缶詰工場で火災が発生した。友人の一人に缶詰を拾いに行かないかと誘われ、現地へ向かうと焼け焦げた缶詰を見つけた。何の缶詰かは覚えていないが、中身は食べられた。

 それだけ食べ物に困っていたので、後になって引き揚げの船内で、白米のおにぎりが出てきてとても驚いた。その味は今でも忘れられない。

 46年に父が転勤となり、泊居(とまりおる)町に移り住んだ。真岡よりもずいぶん田舎だったが、河口付近に家があったので、マスやキュウリウオという魚を釣って食料の足しにした。

 <ソ連の占領下で生き抜いた>

 占領後しばらくしてから家に泥棒が入り、ほうきとちり取りが盗まれた。道路の向かいにある駐在所に行って、ソ連の警官に被害を訴えようとした。ところが駐在所の壁に掛けてあったのは、わが家のほうきとちり取り。それを見て警官に話す気にもなれず、戻ってきたことがあった。

 占領後、国民学校にはソ連人のクラスが設けられた。1~6年生が1クラスにまとめられて入っていた。廊下でソ連の子どもとよくけんかになったことを覚えている。

 <引き揚げまでに3年ほどかかった>

 父は終戦直後から内地へ戻ることを希望していた。多くの引き揚げ希望者がいたので、抽選で順番を待っていたようだった。ようやく念願がかない、父の故郷である涌谷町に引き揚げることになった。私が11歳の時だった。

 樺太を離れる時、真岡から出港する船の甲板の上で、私は樺太での日々や戦争の記憶を思い出し、涙を流した。戦争がなければ、ずっと樺太に住みたかった。戦争によって人命も私の古里も奪われた。何としてでも戦争は避けるべきだったと思う。

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