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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第3部 水産大時代編(4) 充実の長期休み 運動も、文化的活動も

大学新聞にルポを掲載した須能さん。当時はグラフも手書きだった
須能さんが在学していた際に発行された大学新聞の表紙

 大学では水産に関わるさまざまな実習を行うが、1年生の頃は千葉県館山市で2週間、水泳実習があった。私が学んでいた漁業科だけでなく、製造科、増殖科も交ざり、計約200人の学生が参加する。カッターボートをこいだり、遠泳で4キロ泳いだりした。

 夏休み期間中の7月か8月のどちらかを選ぶのだが、私は7月の海はまだ冷たいと思い、8月を選んだ。実習前までは、日本橋にある老舗のつくだ煮屋さんで、商品製造の手伝いと配達のアルバイトなどをして過ごしていた。

 実習先の館山市には漁業科の実習施設がある。実習船の備品が置いてあり、航海の時は東京湾から出て同市で船を停泊させ、網など必要な物を乗せていた。漁具の修理なども行っていたはずだ。製造、増殖の学科にも他県に専用の研究施設があったと聞いている。

 水泳実習の最終日は、15人ほどのグループをつくって遠泳を行う。船に乗る漁業科の学生は海に転落するという万が一のこともあるため泳げる人が多い。その半面、他の学科の同級生は泳ぐ必要のない分野なので泳げない人も一定数いた。

 実習はギブアップしてしまうと翌年も受けることになるため、泳げない学生のために日中は水泳やボートの訓練を実施していた。

 本番で泳ぎ切った学生のほとんどはふらふらになっていたが、私は元々、運動全般が得意なので水泳も苦にならなかった。誰かの手を借りることなく、すたすた歩いていた記憶がある。

 千葉で過ごした2週間は普段は話す機会の少ない同級生のことを知る機会。食事や雑魚寝など生活を共にすることで友情を深めることができたと思っている。

 じっとしていることが得意ではなかったので、大学の長期休みの時も友人と何かしていることが多かった。2年生の頃は、キャンパスがある東京から実家の水戸まで歩いて帰ることを計画。友人も誘ったのだが、最終的に私一人で歩き切った。

 学年に関係なく、山手線の沿線を仲間と歩いて回るなんてこともあった。体力にはかなりの自信があるからやっていたのだろう。

 そんな学生生活だが、運動部(相撲部)に所属していただけでなく、勉強や文化的な活動もしなければいけないと思い、入学後には「漁業研究会」というクラブにも籍を置いていた。

 月に数回集まればいいほどで、ほとんどは飲み会だったが、意識の高い学生は新聞を読んだり、卒業生などの漁業関係者に会いに行ったりして、さまざまな研究をしていたようだ。

 新聞部に友人がいて「載せる記事がないので助けてほしい」と相談されることもあった。私はお人よしと言われるくらいだったので困っている人を見捨てられない性分で、2、3年生の時に記事を書いて掲載されたのを覚えている。

 2年生の時は、1965年に日本と韓国との間で締結された韓国周辺水域の漁業資源の合理的利用と安全操業などに関する協定「日韓漁業協定」について考えをまとめた。イカの水揚げを例に挙げた記憶があり、手書きのグラフも付けた。

 学祭で発表するための研究や論文執筆で取材が必要になった際も物おじすることなくやっていた。ただし、当時はパソコンがない時代。学年が上がるごとに難しい問題を調べることが多く、研究したデータや文章をまとめるのは全て手書きで苦労した。

 謄写版(ガリ版)印刷が主流。間違えると修正するのにかなり時間がかかっていたので、今はパソコンで作業ができて、データの保存や管理がしやすい。いい時代になったなと感じる。

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