滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第3部 水産大時代編(5) 航海士コースを選択、実習へ
東京水産大(現東京海洋大)の漁業科では3年生になると、より細かい学問を学ぶため七つほどのコースから一つを選択することになる。漁労、漁具などがある中、私は航海士になるためのコースを選んだ。
昔は希望者が多かった場合、これまでの大学の成績で判断され、希望通りにいかないこともあったそうだが、当時は定員割れしており、ふるい落とされることはなかった。
ただし、航海士の試験を受けるには大学在学時で1年間の乗船履歴をつくり、裸眼で1.0以上なければいけないという決まりがあった。学生の中には船に乗れば国内外さまざまな場所に行けるので、旅行ができるという理由でコース選択しようとする人もいた。
大学保有の練習船(海鷹丸)で実習に出たのは3年夏。夏休み期間を使い、北海道で1カ月ほどイカ釣りや底引き網の操業をした。
一日の動きとして、午前6時に起床。ラジオ体操やデッキの清掃をしてから食事をする。日中は授業や網揚げがあり、夜は交代で見張りもした。
北海道での実習中、釧路に入港したが、夏なのに半袖の制服では寒くて街を歩けない。人生で初の北海道だったが温度差があったためか印象が良くなかった。
かなり後の話になるが、私が大洋漁業(現マルハニチロ)を退職する際、石巻、八戸、釧路の市場から誘いがあった。中でも釧路がマルハとの縁が深く熱心に声を掛けてくれたのだが、当時の印象が残っていて、申し訳ないが、乗り気になれなかった。
ほかにも、4年生の時には瀬戸内海経由で東シナ海に行き、底引き網の実習もした。操業で根掛かりがあり、網が揚がらないということがあった。海軍にいたことのある船長が「もしかしたら戦争で使われた爆弾の可能性がある」と網を切って水揚げを中止した。
結果、東シナ海では海洋観測などにとどまり、九州周辺に場所を変えて操業することになった。
また、悪天候の中の航海もあった。日本に返還される前の小笠原諸島に練習船「青鷹丸」で行った際には、台風やしけで左右に大きく揺られながら海を進んで静岡の焼津に戻ったことも記憶に残っている。
変な話だが、船が揺れ過ぎたことで、船酔いをしたのか、船の水が臭く感じた。その時に友人がくれた飲み物が私が当時苦手だったトマトジュース。ちゃんと確認せず口にしたのだが、すごく新鮮に感じ、大好きになった。理由は分からないが苦手の克服もできた。
一般的な大学は4年で終了するが、航海士を目指す学生は他の学生と同じで卒論を執筆し、一度卒業してから再度入学、漁船運用学専攻科という学科で1年間過ごす。大学院に入るのを想像するのが分かりやすいかもしれない。
大学5年目は9月ごろから翌年の3月まで船に乗り海外での実習に臨んだ。東京湾を出発し、大学の施設がある千葉の館山で準備、そこからシンガポールやパキスタン、クウェート、ケニア、マダガスカル、ペナン(マレーシア)とさまざまな国を訪れた。
年末年始は実家に帰れないので、家族に送る新年のあいさつを書いた手紙は見える景色を想像し、事前に執筆していた。日本の風習を忘れないように、ケニアに入る前には餅つきをしたこともある。
道中では北海道大の教授が同じ船に乗る時期があり、私が助手として研究のサポートをすることもあった。また、海外では歓迎会を開いてもらう時もあったのだが、学生代表であいさつをさせられるなど、中心的な存在として仕事を振られることが多かったと思う。
関連リンク
- ・滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第3部 水産大時代編(4) 充実の長期休み 運動も、文化的活動も(2024年8月21日)
- ・女川2号機に燃料装荷、13年7カ月ぶり 11月再稼働へ作業開始 東北電
- ・出島の環境整備計画 町、来春完成目指す 女川町議会一般質問
- ・東松島市議会9月定例会が開会 補正予算など16件、可決
- ・秋田・山形大雨、復旧支援 石巻の瀬崎組など活動報告