滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(1) 先輩らの勧めで入社決意
大学在学時、定期的に相撲部のOB会総会に出席する機会があった。相撲がつないだ縁が卒業後の進路に大きく関わっているといっていいだろう。
総会には大洋漁業(現マルハニチロ)をはじめ、会社の規模にかかわらず、多くの漁業会社の役員らがいた。1年生の頃から大学のOBと話しているなか、大洋の人たちの雰囲気がおおらかで、私の性格に合っていると感じていた。
現役の先輩からも「須能は大ざっぱな性格だから大洋がいい」と背中を押された。尊敬するOBからも誘いがあり、3年生ごろにはこの会社に入ろうと決めていたと思う。
大洋漁業から東京水産大(現東京海洋大)に来ていた船員の求人数は5人。私と、水戸一高の同級生で野球部主将の木田、ボート部主将、ヨット部主将、柔道部の副主将が希望した。
私が大学生だった昭和40年代の水産会社の経営はどこも下降線をたどっていたが、同社は30人の採用を掲げていた。試験は筆記と面接で、最終的に合格したのは私と木田、北海道大の学生の3人。北大生は大学院に進学したので入社は2人になった。
面接で「希望部署はあるか」と聞かれ「サケ・マス課に行きたい」と即答。しかし、この時はトロール船員を募集していたので、人事部長が「希望と違うがそれでもいいか」と確認してきたので、「入社が目的なのでどんな船でもいい」と力を込めた。
大学を卒業し、大洋漁業の筆記と面接も合格していたが、航海士の試験の関係で内定が白紙になりそうになったエピソードがある。
卒業してすぐ、2等航海士の資格を得ていたのだが、大洋漁業で働くには、夏にある1等の試験も受けて合格しなければいけない。そんな大事な試験日に、乗っていた電車が事故で会場に遅れてしまった。
不合格になり、大洋では働けないと思ったので、水産大の先輩がいる別の会社に「私を入れてもらえないか」と相談したが後日、大洋から正式に採用された。
水戸の実家で過ごしていた1969年8月、大洋から「3日後に下関にある支社に来てくれ」と電話があった。
すぐに茨城、東京を経由して現地に向かい、健康診断を受けて船員手帳を作る。その後「あなたはすり身加工のトロール船(3000トンクラス)に乗船しなさい」と命令があった。長崎の佐世保に船があると乗船場所も教えられた。
トロール船では見習い航海士としてベーリング海を目指すことになり、8カ月操業。1日、午前8時~正午と午後8時~午前0時の計8時間労働。漁場に着くと計12時間に変わった。
船長から航海計器を使い船の位置を記録していくことを命じられたが、大学の練習船では計器使った訓練がなかったので、どうしていいのか分からず困惑してしまった。それでも1等航海士の先輩に指導してもらい、使い方を覚えた。
漁場に着くと船長の指示で網入れや網揚げのタイミングなどを船員に伝えることもあった。魚が揚がり始めると空き時間になる。
さまざまな仕事を見たいと感じていたため、船の中にある加工場で作業員に船上の様子を話しながら、加工の仕事を見せてもらうことなどもしていた。
同期の木田も私と同じように、見習い航海士としてアフリカ沖のトロール船に乗船していた。
13カ月の航海後、3等航海士になれると思っていたのだが、次の航海も見習いとしてアフリカに行くことを命じられ、不服に感じ大洋を退社。同期がいなくなってしまった。
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