滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(6) 北米事業立て直しへ シアトル勤務
1978年、大洋漁業は北米事業改善委員会という組織を立ち上げた。北米の貿易部門の立て直しを目的としたもので、委員に選ばれた私は同年秋から米シアトルで仕事をすることになった。
実は委員に選ばれる前から米国行きは決定していた。サケ・マスの漁期が終わってすぐだったと思う。サケ・マス課の課長に呼ばれ、米国の水産政策を調べるための駐在員として打診を受けた。
大洋漁業は、駐在員をサケ・マス課が入る北洋部の中で課長代理の役職を持つ人から選ぼうとしていた。しかし、適任者がいなかったことや、会社の幹部クラスの人たちが「役職は違うが、須能はどうだろうか」ということを言っていたらしい。
海外での仕事に憧れがあった私は「行きたいと思っていました。ぜひお願いします」と即決。課長から英語が話せないのではないかと心配されるも「英会話を習っているから問題ありません」と返答して、後日、正式に決まった。
北米事業改善委員会では、現地スタッフ(米国人)を使って、どのように自社製品を作っていくかという計画を立案した。大洋漁業がアラスカ州に所有するカニやニシンなどの水産加工場も視察した。
現地での生活は私を含む日本人4人が2人1組となり、ホテルとアパートを使った。2週間に1度、住まいを入れ替えるなど気分転換をしながら仕事をした。
駐在員としての仕事は約半年が過ぎた79年春に始まった。初めは単身で暮らし、家族は夏に合流した。家族が米国に来る時、海外の航空会社のミスで二重予約が発生。本来座る席に別な搭乗者がいた。
航空会社に問い合わせをしたものの、結局、ダブルブッキングは解消できず、次の便で来るというトラブルに巻き込まれてしまった。
家族と暮らす家探しは想定よりも早く終わった。日本水産の駐在員が帰国したタイミングで、一軒家が空いたという話をもらった。苦労することなく決められたのは良かった。
海外生活に適応できない人の特徴は、その土地での食事や文化の違いに戸惑いが生まれることだろうと思う。私の場合は米を炊き、オーブンで魚を焼くなど、日本にいる時と変わらない生活ができた。妻も海外生活に対して徐々に慣れてくれた。私の職場の仲間や近所にいる友人らを招いてホームパーティーを開き、天ぷらなどの料理を振る舞っていた。
ほかにも、関連会社が日本に輸出していた関係で、自宅の冷凍庫にアワビが山ほどあった。砂糖としょうゆで煮て近所の人に振る舞ったり、逆にイカをもらったりした。正月にはお礼に餅をついて配るなど、助け合いで仲を深めた。
日本との違いで面白いと感じたのは車の免許を取る時だ。米国は簡単なペーパーテストで最低限の知識を確認し、運転は免許を持っている親や知人に公道や私有地で教えてもらう。最後に予約した上で警察官に運転を見てもらえば試験は終わり、免許取得となる。
日本では車を持っていなくても生活に支障はなかったが、米国では必要になったため取得することにした。
日本のように何カ月も時間をかけたり、どこかに合宿へ行ったりすることはない。ペーパーテストも問題数は少なく、落ちたとしても、もう一度受ければ誰でも合格できる。落とそうとする試験ではなく、受からせようとする感じだった。
私の場合は知人に運転を習い、すぐに高速道路に出るなどして短期間で取得できた。
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