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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(7) 200カイリ水域導入、米国の漁業学ぶ

漁業委員会の委員長が所有する島でのパーティーに参加した須能さん(左)=1980年ごろ
須能さんが駐在員として出席した北太平洋漁業委員会。漁業の在り方や資源管理について話し合われた

 私が大洋漁業(現マルハニチロ)に入社したのは1969年(昭和44年)。この時代は日本の各水産会社が競い合い、技術と機動力で大型船団を北太平洋に向かわせ、自由に水産資源をとっていた。しかし、漁業資源の枯渇などの問題が大きくなっていた時で、国連を中心に新しい海の国際法を作ろうという機運が高まっていた。

 そんな中、米国やカナダなどの主要国が相次いで200カイリ(約370キロ)漁業水域の導入に踏み切った。私が米国に派遣される前の77年は「200カイリ元年」と呼ばれている。この年を境に日本の漁船は他国の沿岸海域で自由に操業できなくなってしまい、遠洋漁業は特に打撃を受けることになった。

 大洋漁業も米国の西海岸(アラスカ湾、ベーリング海)で、サケ・マス、カニ、底引きなど母船式の漁業、東海岸でもトロール船の漁をしていた。

 私がシアトルに駐在員として派遣されたのもこの問題が深く関わっている。大手の水産会社も同様に東か西のどちらか沿岸地域に駐在員を出していたと思う。

 大手の水産会社は米国に貿易部を設けていたが、商材の買い付けが主な仕事になるので、船で魚を捕ることは専門ではなかった。このため米国の漁業のやり方を知る必要があった。

 駐在員の主な仕事は、会議への出席や資料集めだ。年に8回ほどある「北太平洋漁業委員会」に出席。政府、地元の漁業者と加工業者、消費者をはじめ、私たちのような漁をさせてもらう外国人らが集まり、漁業の在り方や資源管理について話し合った。

 ただし、私を含む外国人はこの委員会での最終的な結論を出すまでは関われないため、事務局からの発表や米国の動きを常に気にしている。結論が出る前に自分たちの意見をまとめて、会議がある時に、日本側の意見として発言や要望を出すこともあった。

 資料は大学や研究機関に出向いてみせてもらう。私は自宅近くにワシントン大があって、週に何度が足を運んでいた。

 大学内に「北西太平洋漁業研究所」という機関がある。専門の研究者と親しくなることで、米国の動きや研究資料を見せてもらうことが多かった。研究者から「大手だと大洋漁業にしか教えないよ」というように、親しい関係を築けていたからこそだったと思う。

 会議がない時は参加者の親睦を深めることなどを目的にパーティーが開かれることもあった。シアトルにいた79年か80年には委員会の委員長が所有するカナダの島でのパーティーに招かれたこともある。

 出席者の中には日本側の考を伝えるスティーブ・ジョンソン弁護士、水産庁外郭団体で日米漁業交渉の同時通訳を務めていた石井苗子氏(現参院議員)がいて、こちらがほしい資料を交渉してもらってくれたこともあった。

 会議への出席や資料集めのほかにも、シアトルには大洋漁業の貿易部が、ウエスタンアラスカという会社を作っていたので、そこでの仕事もあった。

 日本に代わって漁をしてくれる地元の船を探すこともあった。港を回って個々の船と交渉、大洋漁業が現地で取引していた会社からの紹介で相手を見つけるというパターンもあり、契約のためアラスカやサンフランシスコなどを巡回した。

 米国にいた時に感じたのは米国人の貪欲さだ。漁をしている時は目的のものを捕るまで作業を続ける。体力があるだけではなく、お金を稼ぐことへの執念があった。日本人からの教えも熱心に聞いていた。

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