滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(8) 日米関係者つなぐ役割担う
前回の続きになるが、1977年に米国やカナダなどの主要国が相次いで200カイリ(約370キロ)漁業水域の導入に踏み切ったことで、日本はこれまでと同じやり方で漁ができなくなった。一方、米国は水揚げした膨大な量の魚を処理する施設や設備を十分に備えていないという課題があった。そこで、日本は米国に加工のノウハウを伝えることで、これまでの利益をカバーしようとしていた。
水産加工場が立ち並ぶアラスカのダッチハーバーは当時人が住んでおらず、水がきれいな場所だった。そんな環境に目を付けた日本の水産会社がこぞって加工場を建設。米国人を雇ってスケトウダラやカニなどを使った商品を作り始めた。
今は米国人の健康志向も当たり前に聞かれるようになったが、私が駐在員だった頃も富裕層を中心に健康への意識があり、カニはコレステロールが高いという理由で避けられていた。
そんな中、米国ではカニかまが人気を集めた。当時は「カニ棒」と呼ばれ、サラダなどに使われることが多かった。米国のとあるレストランに行った時、「カニかま」ではなく「カニ」として提供されていたことがあって驚かされた。
200カイリの設定後、日本は米国側から「水産資源などを守ってくれるいい国だ」と好印象を持ってもらおうと、さまざまな取り組みを一緒に行った。私も業務の一環で漁具の研究開発に関わった。
当時の米国で巻き網やサケマスの漁をすると、餌となるカツオの群れを追いかけてきたイルカが網に掛かり、死んでしまうことが多かった。
漁獲量を減らさず、イルカも傷つけないという方法を探すのは大変なこと。私は自宅近くにある大学や研究機関に足を運んだ。
イルカが泳ぐ時に出している音波に目を付け、漁網に中空糸と呼ばれるストロー状の網を巻いた。イルカに障害物があると気付かせたり、網に音楽ライブで使うペンライトを付け、投網の時に折って発光し、色で識別させたりといった実験を繰り返した。
駐在員としてさまざまな業務をしたが、私が住んでいた頃は、米国に常駐する日本政府の関係者に、米国の水産関係者と深いつながりを持つ人がいなかった。さまざまな理由が重なって私が両国の関係者をつなぐ役割を担うことになった。
仕事として水産庁の関係者が来た時、ホテルのチェックインを手伝ったり、米国の水産関係者との会議の場を設けたりと、大使館がするような業務をした。
日本から水産関係者が来ると時間があれば買い物に付き合うため、大型ショッピングモールの案内をしたこともある。米国に来る人たちは、私がサービス精神があり、おせっかいを焼いてしまうので「困ったら須能を頼れ」と言われているようだった。
また、日本政府とは米国に対し「日本にとってサケマス漁がどれだけ大切な仕事か」「資源保護のためにやっていること」などを書類にまとめることもしていて、今思うと多忙だった。
決まった曜日の休日がなく、水産庁の来客がない時や水産に関する会議が入っていない日がオフだった。家族サービスでカナダのバンクーバーへの旅行をしたり、米国内の自然豊かな所で景色を眺めたりして、ゆっくり過ごしていた記憶がある。
200カイリの関係でこれまでの駐在員よりも仕事量は多かったが、子どもの頃に映画館で日ソ漁業交渉のニュースを見て「国際舞台に立ちたい」と東京水産大(現東京海洋大)に進んだ経緯がある。苦労もあったが、充実した日々だったと感じている。
関連リンク
- ・滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(7) 200カイリ水域導入、米国の漁業学ぶ(2024年11月6日)
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