滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(9) 初の女性船医、業界に転機
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駐在員の業務が落ち着いた1981年、米国から日本に戻る決断をした。きっかけの一つは米国にある大洋漁業の貿易本部が生産事業本部に変わったこと。商品の製造や品質管理が主な仕事になり、漁業の国際交渉がやりたかった私は家族を説得して帰国した。サケ・マス課の課長補佐として母船に乗り、調査船に指示を出す立場になった。
翌82年は水産業界の転機になる出来事もあった。通常、100人以上の乗組員がいる船には船医を乗せなければいけないというルールがあり、サケマス漁で使用する明洋丸(9040トン)も同じだった。その船医を初めて女性が務めた。
日本の北洋漁業は母船式工船漁業といって、解体や冷凍といった製造加工処理の設備を備えた母船を中心に、運搬船、給油船、独航船などで船団を形成する。
1船団1000人程度で、大洋漁業は最も多い時代で明洋丸、地洋丸、仁洋丸の3船団。日本水産(現ニッスイ)、日魯漁業(現マルハニチロ)といった大手も含めると計11船団で漁をすることもあった。
船に乗ってもらう船医は提携する大学にお願いし、人選も任せる。しかし、82年は5~8月の漁期の直前まで決まらなかった。期間中はずっと海の上にいるので、医師としての経験が浅い深いに関係なく、断られるのも無理はない。
そんな中「私でよければ」と手を挙げたのが、東邦大学病院麻酔科にいた田村京子さんだった。当時の水産業界は船に乗る仕事も含めて男社会。女性がいることはまずなかった。
前例がないため、会社の人事部もちゅうちょしたはずが、漁に出られないのはまずいとなり、承諾したのだと思う。昔は「独航船に女性を乗せると魚が捕れなくなる」と、何の根拠もないがタブーとされることがあったので、事前には公表されなかった。
田村さんの乗船は函館を出港後の3日目、船団の無線電話で乗組員に伝わった。本当に女性なのかと疑う船員もおり、43隻の独航船を束ねる船頭が母船に会いに来てはり治療を受けた。すぐ治療の効果があったのか、評判が広まり、ベテランの船頭たちがマグロの刺し身など手土産を持って頻繁に治療を受けに来ていた。
田村さんは性格がさばさばしていて行動力もあった。時間があれば作業場を見て回ることもあり、「調子はどうですか」と船員に声をかけていたので、周囲とすぐに打ち解けた。
私は当時39歳で、田村さんは三つ上の42歳だったと思う。彼女は本の執筆を考えていたため、診察風景の写真が欲しいとお願いされた。診察している雰囲気を撮るため患者役をしたことがある。
田村さんが乗ったのはこの漁期だけで、それ以降、女性の医師がサケマス船に乗ることはなかったと思う。彼女は大学に戻ってから、船での経験を若い医師に伝えてくれていたようだ。「私が行けたからあなたでも大丈夫」と他の医師に乗船を勧めていたという。
今は船の仕事現場でも女性がいて、航海士を目指す学生も増えているが、田村さんが手を挙げてくれていなかったら、もっと人数が少なかったり、男社会のままだったりしたのかもしれないと思っている。
田村さんは84年には南極海捕鯨船団の船医になった。85年は船員制度近代化実験船の調査員を委託され、北米航路のコンテナ船にも乗った。
その後、石巻市の田代島出身の無線師の男性と結婚し、七ケ浜町に移住して病院を開業。数年前まで現役で活躍した。今は七ケ浜でゆっくり過ごしている。
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