能登地震、発生1年 石巻地方から支援続々 震災の経験、力に
2024年元日に石川県能登半島を襲った大地震の発生から1年がたった。同県では12月時点で、犠牲者が498人(うち災害関連死270人)、家屋の被害は全半壊が約2万4000件に上った。9月の豪雨による被害も重なり、いまだ生活再建の見通しが立たない地域もある。困難に直面する被災地の住民を支えようと、東日本大震災を経験した石巻地方のボランティアたちは発災直後から足しげく支援に通っている。震災の経験を力に変え、能登で奮闘する人たちを紹介する。(漢人薫平、及川智子、浜尾幸朗)
■石巻市職員・及川剛さん(61)=石巻市=
<心の内、じっくり聞く>
石巻市職員の及川剛さん(61)は昨年4月から石川県志賀町に派遣され、生活再建支援金の申請や被災建物の公費解体業務などに携わる。
生活再建支援金の申請では、住民の相談に電話や対面で応じる。「1日の半分はお茶飲み話」と言うほどじっくり話を聞き、会話が相談と関係のない内容に発展することも多い。ただ、相談者の大半が家族や地域の今後に対する不安を口にする。人口約1万7000人の町で「あんただから言うけど」と心の内を明かす人もいるという。
被災した家屋は公費で解体されるが、住宅再建の費用捻出が難しい高齢世帯も多い。すぐに答えが出せない分、しっかりと話を聞くのは東日本大震災の経験が基になっている。
当時、市河北総合支所に勤務していた及川さんは約7カ月間、総合支所に寝泊まりした。「眠れない」と訪れる市民らを招き入れて「お茶飲みすっぺ」と誘った。話を聞いてもらいに来た人は50~60人に上った。「思いを誰かに話したい人もいる。少しでも気が紛れ、前向きになれるように話を聞くだけでいい」
町の復興を担い、今後のまちづくりに悩む若手職員らには「元に戻そうと気張らず、新しいものを取り入れながら良かったころに近づければいい」と声をかける。震災を糧に住民と町職員に寄り添い、「石巻での復興の経験を志賀町、能登半島の皆さんのために役立てたい」と話す。
■一般社団法人日本カーシェアリング協会・西條里美さん(36)=石巻市=
<車の貸し出し、広く長く>
東日本大震災を機に設立された石巻市の一般社団法人「日本カーシェアリング協会」は全国の被災地で活動し、寄付された車を被災者らに無償で貸し出している。能登地方でも発災直後からマイカーを失った住民や全国から集まる支援者の移動を支える。事務局長の西條里美さん(36)は継続的に現地で支援に当たる。
石川県七尾市に拠点を置き、昨年1月15日に活動を始めた。従来の災害では発生直後のピークを過ぎると緩やかに依頼が落ち着く傾向にあるが、能登では一定の需要が長期的に続いている。貸出件数は延べ4876件(2024年12月18日現在)で、23年に全国で貸し出した合計の約8倍に上った。
協会は初めてサテライト拠点を各地に設置。現地の支援団体などと連携し、最大9カ所で車を供給した。西條さんは「いつまでもニーズが減らないのは、新しい車を購入できるほど生活を立て直せた住民が少ないのでは」と指摘する。
西條さんは石巻市桃生地区出身。15年の転職を機に都内からUターンし、復興支援に携わるようになった。能登に通う中で「震災時に比べてボランティアが去るのが早い」と現状を危惧する。
協会は昨年7月までだった貸出期限を今年2月に延長したが、支援の収束は見通せていない。西條さんは「住居や食事と違い、移動手段は公的な支援が乏しい。国や自治体も取り組みを広げていくことが重要だ」と訴えた。
■NPO法人MAKE HAPPY・谷口保さん(48)=石巻市=
<復興への思い信じて>
NPO法人「MAKE HAPPY」代表理事の谷口保さん(48)は鹿児島県出身。東日本大震災直後から石巻で復興支援に取り組んできた。
能登半島地震では発災翌日の昨年1月2日、法人の復興支援チーム「め組JAPAN」の一員として現地に入った。他のNPO3団体と連携し、任意団体「TEAM JAPAN」(現在は3団体で構成)をつくり、石川県羽咋市を拠点に能登地方全域で支援を展開する。
活動は、倒壊家屋の片付けや家財の搬出、マッサージやはり・きゅうなどリラクセーションの提供、炊き出し、仮設住宅でのイベント開催など多岐にわたる。9月の豪雨被害後は、輪島市や珠洲市を中心に泥のかき出しに追われる。
現地での活動で感じる課題はボランティアや関係人口の少なさ。「人が交わると希望が生まれるが、人が入ってこない。能登半島地震への興味、関心が薄れている」と危惧する。「自らも被災していながら、周りの被災者を手弁当で支援している住民が多い」
NPOや関係機関が緊密に連携した被災者対応を求め「災害が起きたら、被災者の声を行政が吸い上げるボトムアップの対応が必要だ」と指摘する。
延べ3000人が活動するTEAM JAPANは、ボランティアを随時募集している。災害支援活動が能登で15カ所目になった谷口さんは「復興へ向かう能登の力を信じてサポートしたい。今年いっぱいは活動を続ける」と強調した。
■ラーメン店「麺屋丸宮」店主・佐藤健司さん(44)=女川町=
<炊き出し、声ある限り>
サンマの塩焼きに牛タンつくね、石巻おでん、石巻名物のちゃきん…。炊き出しと聞いて想像する食事とは少し違い、時には石巻地方の地域色あふれるメニューを振る舞う。
石巻市八幡町のラーメン店「麺屋丸宮」の店主佐藤健司さん(44)は、飲食店仲間らと石川県輪島市などで炊き出しを続けている。「東日本大震災でたくさんの支援をもらった」。能登半島地震の発生直後に支援物資を届けて以降、現地に6回足を運んだ。
ラーメン店を開いたのは震災後、地元の女川町で食べた炊き出しがきっかけだった。いち早く支援に来て振る舞ってくれたのは仙台市の有名店だった。本格的な味に衝撃を受けて研究を重ね、2015年に開業した。
炊き出しに使う食材などは、石巻市や女川町の水産加工会社など多くの関係者から協力を受ける。参加できなくても協賛金を託してくれる人もいる。それでも、続けていくには多額の費用が必要だ。佐藤さんらは各店舗での募金のほか、能登半島や宮城の地図がデザインされたTシャツを作り、売上金を費用に充てる。
料理人たちが被災者が食べ飽きないようにメニューを考え、仕込みから現地での調理までを手がける。佐藤さんは料理や環境に合わせて自前で調達した調理器具も多い。「炊き出しに来る人はまだ大変な状況。『また来てね』と言ってもらうとみんなまた来ようと思う」。求められるうちは続けていくつもりだ。
■一般社団法人こころスマイルプロジェクト・遠藤伸一さん(55)=石巻市=
<揺れる子ども、笑顔に>
駄菓子屋に見立てた会場にお菓子を並べ、子どもたちを出迎える。おもちゃの500円玉を渡し、好みのお菓子を購入してもらう。支援物資としてただ与えられるのではなく、自ら選ぶ楽しさに子どもたちの目は輝いた。
石巻市須江の木工業遠藤伸一さん(55)は、理事を務める市内の一般社団法人「こころスマイルプロジェクト」の活動として、能登地方の被災地で「駄菓子屋ワゴン」を展開する。
トラックやワンボックスカーにお菓子を詰め込み、昨年7月と11月に石川県能登町や七尾市、内灘町などを訪問。延べ約1300人を受け入れた。子どもたちは楽しそうに会場を回り、一生懸命に金額を暗算していた。遠藤さんは「生きていてくれてうれしい。子どもの笑顔が地域を明るくする」と語る。
東日本大震災でわが子3人を亡くした。石巻市渡波地区の自宅を津波が襲い、長女花さん(13)、長男侃太(かんた)君(10)、次女奏(かな)さん(8)=いずれも震災当時=が犠牲になった。「この悲しみが癒える日は来ない。それでも多くの人から思いを受け取り、生きていこうと思えた」
地震、豪雨後の急性期を脱した能登の子どもたちの心は「これからが不安定になる」と懸念し、活動で知り合った現地の支援者向けにグリーフ(深い悲嘆)ケアの研修を実施しようと計画する。「自分を最後に救ってくれたのは人の思いだった。子どもたちにもそう伝えたい」と力を込めた。
住民語る、被災地の「今」
「石巻かほく」は2024年、能登地方での取材を重ね、被災者の声を聞き取ってきた。当時出会った住民2人に被災地の「今」を聞いた。(漢人薫平)
■会社員・板倉賀津広さん(50)=志賀町=
<1年ぶり、日常ようやく>
築50年以上の実家は地震で屋根瓦がずれる被害に遭いました。当初は「年内に直せれば早い方だ」と業者に言われましたが、昨年9月に修理してもらうことができました。それまでは応急処置のブルーシートが強風で飛ばされたこともあったので、ヒヤヒヤする毎日を過ごしていました。
建物は準半壊判定でした。まだ戸を開けられない部屋もあります。でも、半壊以上の被害を受けた近所の方に比べたら、住めるだけまだ良い方だと思います。
6月に石巻地方からのボランティアがブロック塀を片付けてくれました。自分たちではどうすることもできなかったので、ありがたかったです。これが「困った時はお互いさま」ということなんだと思いました。
実家の隣の自宅では、壊れた壁やキッチンなどを12月にようやく直せました。地震の前の日常に戻ることができたと感じています。
■旅館業・坂本菜の花さん(25)=珠洲市=
<自分にできること模索>
地震で旅館の建物が被害を受け、約3カ月間休業しました。豪雨で泥水が入った場所もありますが、友人やボランティアに助けられ、1週間で日常に戻ることができました。ただ、周りを見ると被害の大きさに途方に暮れてしまいます。
同級生の家の周りには、山積みの倒木が残されています。旅館のお客さんは屋根にブルーシートをかけたままです。この1年間、地域のために役に立ちたいと思ってきましたが、大したことができなかった自分が情けなくなります。
復興計画づくりに向けた行政と住民の意見交換会が昨年12月にありました。質疑応答での第一声は「いまだに電気も水もない。正月くらい生まれた家で迎えたい」でした。まだ日常に戻れない人たちのことを考えようと参加しましたが、いざ話を聞くと「私には何ができるんだろう」と堂々巡りをしてしまっています。
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