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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第5部 サケマス船団長編(4) 哺乳類混獲許可取得へ交渉

船団長2年目を迎えた須能さん。船団の数も減り苦しい漁を強いられた=1987年
須能さんが当時持っていた船員手帳

 1977年ごろ、米国200カイリ(約370キロ)内で操業する漁船は、イルカやオットセイなどが該当する海産哺乳動物の混獲許可が必要だった。日本の母船式サケマス漁業も同様、米国が発給する混獲許可証の取得が義務づけられていた。

 許可をもらうには、米国政府が法廷で開く公聴会に出席する必要があった。日本はその席で、いかに生物を守りながら漁をしているかなどを証明しなければいけなかった。

 米国の裁判所、米国流の公聴会の進め方などに日本人は慣れておらず、証言者は精神的なタフさがないと大変な役割だったと思う。

 以前にも説明したが、サケマス漁をしていると餌を追いかけてくるイシイルカやアホウドリが誤って網に掛かってしまうことがある。決してイルカなどを捕ることが目的ではないのだが、海外からは生き物をいじめているように見えるようだ。

 大洋漁業(現マルハニチロ)などは昔から網に掛かるイルカやアホウドリへの対策のため、さまざまな努力を重ねた。科学者と話し合いを重ね、折ると発光するペンライトを付けた漁網を開発したのがその具体例になる。

 私は混獲許可を得られるようにする資料作りも担当した。駐在員の経験を買われ、米国との橋渡し役になり、サンディエゴにある研究機関に出向いて操業を可能にする手段を探った。

 公聴会に関わることになった1回目は81年。米シアトルで駐在員をしていた時だ。この時は日米共に海産哺乳動物に関する詳細なデータを持っていなかったので、2日程度で審理が終了したと思う。

 2回目は船団長に就任した86年。前回とは雲泥の差で、科学調査による知見が増えた。その分、争点も増えたため、日本は可能な限り証言者を用意し、労力と費用が膨大になった。終了するまで1週間ほどの長丁場になった。

 混獲許可を取得するために必要な流れは把握して臨んでいたものの、私たちにとっては思わぬ伏兵が現れる。環境保護団体のグリーンピースだ。

 元々は日本と米国の関係者だけで協議していた形から、環境保護や動物保護の団体が出てくるようになった。米国ではグリーンピースの運動に参加すれば税金が免除されるといったこともあったらしい。

 さらに、グリーンピースは豊富な資金力に物を言わせて優秀な弁護士を多数雇うなど、あの手この手で攻めてきた。

 日本が自国にとってどれだけサケマス漁が大事か、捕り過ぎていないことや米国人に漁と加工技術のノウハウを教えてきたことなどを説明しても、ありがた迷惑だという雰囲気で、情に流されることは一切なく、許可は出るものの厳しい立場に変わりはなかった。

 200カイリ規制、母川国主義など、日本の水産業が大きなダメージを受けていたのがこの時代だったと思う。そこに、日ソ漁業協定を結んでいたロシアが漁獲割り当ての削減を通告してきた。さまざまな要因があり、私が船団長だったころは4船団で、そこからさらに縮小を迫られた。

 87年は大洋漁業が中心の明洋丸、日本水産(現ニッスイ)などでつくる野島丸、日魯漁業(現マルハニチロ)単独の喜山丸で操業した。

 最終的には88年以降の混獲許可は出ず、操業ができなくなる。許可を巡るやりとりの中で、関わる人と仲良くやっていこうとする日本人特有の社会性を感じた一方、「YES」や「NO」とはっきり伝えられない性格は交渉の中で弱点になったかもしれない。

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