滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第5部 サケマス船団長編(5) 母船会社の操業、赤字経営に
これまで何度か話してきたように、日本の母船式サケマス漁業は1970年代後半になると、米国などからの漁獲規制の強化や漁業協力費の支払額の増加で継続が厳しくなっていた。船団の数を減らしながらも続けていたが、私が船団長になった86年の操業も母船会社は赤字経営だった。
年々、規制も強化され、米国が発給する混獲許可証の取得に必要な経費も増すばかり。米国内では畜産業界が日本に対し「捕鯨を止めれば肉を多く輸出できる」と言いだし、観光業界も「サケ漁をしなくなればアラスカに人を呼べる」と声を上げていたという。
母船会社でつくる協議会などで解決策を何度も話し合ってきたが、日本の水産業界にとって悪い流れが変わることはなく、3船団で操業した87年も採算が合わなかった。そこで、将来的な操業方法の在り方を考える幹事会が開かれた。
大洋漁業(現マルハニチロ)、日本水産(現ニッスイ)、日魯漁業(現マルハニチロ)と、その系列会社の関係者が出席するが、86、87年の当番会社は大洋漁業だったので、私が幹事長として、役員会に提出する書類を作成した。
社内で作業をしていた際、大洋漁業の天辰祐之郎(ゆうしろう)社長(当時)が声をかけてくれ、文章を添削してくれた。課長クラスが出る会議の資料を社長直々に直すことは珍しく、それだけ重要な案件だった。その時の紙は捨てずに今も大事に持っている。
大手や系列会社計8社で協議を重ね、現在の各社の経営状況や今後の経営見通しを検討した結果、88年は1船団に縮小する覚悟を決めた。日ソ漁業交渉の結果次第で2船団にするが、それ以降は母船は出漁しないことになった。
最後の出漁は大洋系の明洋丸と日魯系の喜山丸のどちらの船団で行くかという議論になった時、日魯側から「こちらの船団長は就任したての新人。最後だからベテランの須能さんに指揮を執ってもらえないだろうか」と頼まれた。
私自身も最後の船団長としてサケマス漁に出たいという気持ちを持ち、天辰社長も承諾していたらしい。そんな中、会社に来るようにと大洋の専務から連絡を受けた。
専務から「漁に出たいか?」と聞かれたので素直に答えた。しかし「これまでのサケマス漁の事情に詳しく、業界を仕切ってきた存在はお前だろう。準備に関わった費用などの精算業務は長く関わってきた人にしかできないから、お前がやれ」と言われ、乗船しなかった。
日魯側の船団長には「シェアは日魯の方が上。本来はあなたで行くものだ。ただ、新人で難しいこともあるはずだし、周囲も私で行くだろうと思っている。サポートするメンバーはこちらでそろえて、引き継ぐ形にするから」と伝えた。
母船式の操業ができなくなり、多くの船員を乗せてきた明洋丸(9040トン)も88年で目的を終える。私は同船を所有する大洋漁業系列の函館公海漁業から船の売却を依頼された。
80年代の終わりには他社も母船を売却したり、スクラップにしたりしていた。持っていても使い道はないし、維持するにも膨大な費用が必要になるため、会社とってマイナスになってしまう。
その後、明洋丸は中国に売られた。船を岸壁に接岸した状態で水産加工の工場にする陸上加工船となるため輸出された。
輸出の際は大洋漁業系列の関係者が集まり、船の上でお酒を飲みながら別れを惜しんだ。中国に向けて出港する瞬間を見た時に、改めて北洋漁業の終わりを感じた。
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