かつて あのまちは (2)東松島・野蒜 海岸と築港、観光創出 松川清子さん
■松川清子さん(74)=東松島市新東名=
旧JR野蒜駅の3軒隣にあった「尾形食堂」の4人姉妹の末っ子です。2004年に野蒜下沼で野蒜築港資料室を開いた時には、遊びに来た人に「ああ、そば屋の清子ちゃんね」なんて言われました。
私が子どもだった昭和30年代、野蒜小の子どもたちは夏休み、野蒜海岸では泳がずに東名運河で水泳しました。地区ごとに泳ぐ場所が決まっていたのは、見守る親たちの都合でしょうか。私は泳げないので、カレイを足で押さえて捕まえていました。子どもたちはそこで「宿題どこまでやった?」と聞き合ったり。
学校帰りには松林を通ってキノコを採りました。ショウロやキンタケが採れ、今思えばいいところに住んでたなあと思います。地域全体の仲も良かったです。
野蒜の観光開発は昭和3(1928)年ごろに始まりました。海水浴場は私が小さい頃、いっぱいのお客さんが来るようになり、電車の切符を買う人がひっきりなしに並んでいました。海から道路を挟んだ向かい側にある店にアイスを買いに行きたいのに、車の流れが多くて渡れないことも。
当時の海は波打ち際がすごくきれいで、桜貝も落ちていました。うまい子は石を渡り、本当に真っ黒なノリを見つけていました。
ガスが来る前だったので、当時「ヨリキ」と呼んでいた流木や、「ミドリさらい」といって落ちた松の木を拾い、風呂やかまどの燃料にしていました。今は木なんか家でたいちゃいけないでしょ。ものすごく暮らしが変わりましたね。
野蒜新町では「尾形商店」も営み、小学校低学年からお手伝いをしていました。クッキーみたいなお菓子、当時は「パンコ」と呼んでいたものを売っていました。栗やタケノコの形をしていて、一つ1円でした。
食料品の小売りを兼ねていたので、お豆腐屋さんが来て、浜市からパン屋さんが渡し船で鳴瀬川を渡ってきて…、小さなお店で用が足せました。今なら何でもスーパーだけど、昔はそうじゃなかった。
いわゆるサラリーマンも役場か郵便局勤めの人くらいで、仕事は1次産業が中心でした。魚がいっぱい捕れるとリヤカーが売りに来て、そこからアジやシャコを買いました。
子どもの頃はみんな真剣に遊んでいましたが、2000年に始めた市民グループ「野蒜築港ファンクラブ」も、大人の真剣な遊びです。開催していた運河クルーズでは、野蒜駅前の船着き場を出て、運河を周遊しました。メインは焼きガキパーティーです。
鳴瀬川河口のそば、新町コミュニティセンター2階にあった資料室には、小中学生から国土交通省の人まで訪れました。土木関係者にとって野蒜築港は学ぶべき場所のようです。浜市小児童には年1回、築港を案内していました。
資料室は東日本大震災の津波で被災し、以来閉館しています。建物があった辺りは防潮堤ができました。1988年ごろにお弁当屋に代わった食堂は、店を継いだ1番目と3番目の姉が津波にのまれて亡くなり、震災当日の3月11日をもって閉まりました。
せっかく築港の資料はまだあるんだから、常設じゃなくてもやれることをしたいです。クルーズも再開したいと思っています。
【松川清子(まつかわ・せいこ)さん】
1950年12月東松島市野蒜地区生まれ。宮城学院女子短大卒。2000年から野蒜築港ファンクラブ事務局長。震災後、津波被害を受けた鳴瀬地区の歴史や文化を伝えようと「奥松島物語プロジェクト」を始動。地域紙「奥松島物語」を発行し、地域の歴史の記述や住民の聞き書きを行っている。
(西舘国絵)
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