音楽、復興を鼓舞 心癒やし活気創出 石巻地方
東日本大震災後、復興へ向かう石巻地方の各地で、さまざまな音楽が被災した人々の心を鼓舞してきた。大切な家族を失ったり古里が津波に沈んだりした人の喪失感を癒やし、圏外から人を呼び込み活気を創出する新たな文化が根付いた。アーティストも時に逡巡を重ねながら、楽器を手に取り、音楽を紡ぎ続けた。震災から14年を経て、その音色はなお力強く、高らかに響く。(都築理)
WACKアイドル × 女川

<聖地 ファン呼び込む>
「女川、盛り上がってますか!」。2024年10月27日、女川町で開かれた「おながわ秋の収獲祭」。7人組アイドルグループ「ASP」のステージにファン約300人が詰めかけた。
ASPファンでさいたま市の学習塾講師、深堀沙織さん(30)は全国各地のライブに足を運んでいるが「女川は特別」という。いわく「海鮮がおいしいし、人が温かい。何よりアイドルとファンの距離感が近い」。
深堀さんの「推し」のASPメンバー、ユメカ・ナウカナ?さんも女川の魅力を「人の温かさ」と語る。「何度来ても、また来たくなる。大好きな場所をファンと共有できるのがうれしい」
東日本大震災からの復興が進む中、女川は一部のアイドルファンから「聖地」として認知されるようになった。
のちに音楽事務所「WACK(ワック)」(東京)を設立する関係者がマネジャーを務めていたアイドルが12年、町の復興イベントに参加したのがきっかけ。その後、ASPなどワックのアイドルが折に触れて行事に出演。そのファンがこぞって町を訪れ、活気を生んできた。
19年にはワックのアイドルが総出演する音楽イベント「オナガワック」が始まった。これまで計3回開催され、6人組グループ「BiSH」(解散)の人気の高まりもあり、23年は約1万5000人を集めた。
イベントでアイドルが「一日店員」になった飲食店やみやげ店にファンが押し寄せるなど、地元への経済効果も大きかった。ある商店関係者は「商店街の盛り上がりがすごかった。ファンのお客さんは今も通販で商品を購入したり、イベントがなくとも店に足を運んでくれたりしている」と説明する。
須田善明町長はこうした盛り上がりを「予想外だった」と振り返る。ワックアイドルの曲をカバーする町民バンドを率いてイベントで演奏するなど、自らも活気創出に一役買っている。
アイドルファンが女川に通う背景について「被災地にありがちな悲しみのストーリーと異なり、未来へ進もうとする女川の前向きさがファンに伝わり、また訪れたいと思ってもらえているのでは」と推し量る。
オナガワックは23年を最後に休止しているが、再開に期待する声は町内外で根強い。須田町長は「できれば再開したい。女川に通ってくれるファンの皆さんのため、これからも楽しんでもらえるような仕掛けを考えたい」と話している。
<アイナ・ジ・エンドさん、石巻地方に思い>
歌手や俳優として活動するアイナ・ジ・エンドさん(30)は、6人組ガールズグループ「BiSH」(解散)のライブや主演映画「キリエのうた」の撮影で何度も石巻地方を訪れている。被災地に寄せる思いを聞いた。

-生後間もなく、大阪で阪神大震災を経験している。
「夜泣きした私を母が抱き上げた瞬間に地震が発生し、ちょうど寝ていた場所にテレビ台が倒れてきたそうです。母が当時を振り返る時、今でも涙を流して語ります。『生きていて本当に良かった』と」
「その経験があるので、助けられた、生かされた自分には、何かできることがあるはず-といつも考えています。被災地で起きた出来事も、他人事とはとても思えなかった」
-2019年からライブや撮影で度々訪れている石巻地方の印象は。
「ライブで初めて女川を訪れた際、津波被害の大きさに衝撃を受ける一方、人々の復興に対するエネルギーに尊敬の念を抱きました。みんな優しく、まるで親戚のように接してくれるのに、想像もできないような強さを持っている。石巻もそう」
「何もできない非力さ、無力さを感じながら、自分は音楽でやれることをやりたいと強く思いました」
-BiSHなどのアイドルライブで女川を訪れたファンがまちのファンになり、女川を「聖地」と称するようになった。
「すごくうれしいし、良かったと思います。(女川の)ライブではいつも、女川を愛して一緒に盛り上げていきたいというファンの熱い思いを感じていました。地元の人の温かさに触れてだと思うんですが、ファンの表情がいつものライブと違うんです。みんな口角が上がって、にっこりしている」
-かまぼこ会社のCMソングになった「われは海の子」の配信収益を女川の子どもたちの支援に充てるチャリティープロジェクトにも取り組んだ。
「ライブで訪れた際、広場で地元の子どもとサッカーをして遊ぶ機会があり、その母親たちがとても喜んでくれたことが印象に残っています」
「自分と同年代で、震災を経験している母親たちに親近感があるので、今後も何らかの形で、被災地の子どもたちを支えるような取り組みをしたい。女川の子どもたちとも、いつかまた一緒に遊びたいですね」
【アイナ・ジ・エンド(あいな・じ・えんど)さん】
1994年大阪府生まれ。2015年に「BiSH」の一員としてデビュー。23年のグループ解散後、ソロシンガー、俳優など多彩な活動を展開している。石巻地方でも撮影された「キリエのうた」では数多くの映画賞で新人賞に輝いた。
バンドマン × ライブハウス

<熱い曲 前向く力に>
2月16日夜、人気パンクバンド「locofrank(ロコフランク)」がステージに現れると、ライブハウス「石巻ブルーレジスタンス」(石巻市立町2丁目、黒沢英明店長)を埋めた観客はヒートアップ。バンドの演奏も熱を帯びた。
ブルレジへの出演はこの半年間で3度目。ボーカル・ベースの木下正行さん(43)は石巻を「特別な場所」と強調する。東日本大震災後、復興ボランティアやライブで何度も訪問しており、取材に「人も観客も熱く、温かいんだ」と語った。
2012年、復興ボランティアに取り組むNPO法人「幡ケ谷再生大学」(東京)関係者の紹介で初めて石巻を訪問。小渕浜漁港の片付けや公園づくりなどの作業に汗を流した。ちょうど同時期、被災地を音楽で盛り上げるプロジェクト「東北ライブハウス大作戦」の一環でブルレジが開業。復興支援に携わったバンドが石巻で次々とライブを行うようになった。
16日、ロコフランクのライブに駆け付けた小渕浜の漁師で市議の木村美輝さん(55)は「バンドマンはみんな見た目はいかついけれど、人の心の痛みが分かる優しい人たち」と話す。バンドマンのボランティア受け入れに関わり、親交を深めた。
津波で妻弘美さん=当時(40)=と長男将也さん=同(16)=を失った。無力感にさいなまれたが、何度も石巻に足を運んで汗を流すバンドマンたちの人柄に引き込まれ、ライブに通うようになった。木村さんが「夢に将也が出てきた」と涙ながらに語るのを聞き、津波の犠牲者への鎮魂歌を作ったバンドもあった。「生きるだけで精いっぱいだった自分に、音楽が前を向く力をくれた」と感謝する。
木村さんら住民有志は19年、ロコフランクなど交友のあるバンドを集めた音楽フェスティバル「イシノマキブチロック」を小渕浜漁港で開いた。ファンが多く詰めかけ盛り上がる一方、「自宅を流され家族を亡くした地元のお年寄りたちも、バンドの熱く激しい曲に触れ、みんな笑顔になった。音楽の力を感じた」
木村さんは今、休止中のブチロックの再開を目指している。地元の若手バンドが出演できるような在り方も模索しているという。「石巻地方のお客さんが心から音楽を楽しむ姿を見せることが、被災地を元気にしてくれたバンドへの恩返しになる」。そう力を込めた。
和太鼓奏者 × 被災地支援

<次は元気届ける側に>
「肘と手首をもっと柔らかく連動させよう」。2月7日夜、石巻市蛇田の「スタジオゲート」。邦楽ユニット「サムライ・アパートメント」の和太鼓奏者KYOさん(32)=仙台市=が、和太鼓チーム「朔之音(さくのね)」のメンバーらにアドバイスした。
チームは今月開かれる音楽イベントに向け、サムライの活動拠点であるゲートで練習を重ねる。リーダーの藤本京(けい)さん(22)=石巻市須江=は「実力を高めていろいろな場所で演奏し、朔之音を多くの人に知ってほしい」と力を込めた。
藤本さんは同市雄勝町出身。8歳の時に東日本大震災の津波で自宅を失った。その後、復興支援の一環で被災地の子どもに太鼓を教えていたKYOさんに誘われ、雄勝小6年時から本格的に演奏活動を始めた。
津波が古里をのみ込む光景を目の当たりにし、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだ。その中で「太鼓をたたけば嫌なことを忘れられた。音で喜怒哀楽を自由に表現できる楽しさが被災のつらさに勝った」(藤本さん)という。
被災した子どもや米国の学生、ウガンダの子どもたちが和太鼓演奏や合唱、ダンスで共演する音楽ステージにも参加。海外での公演も経験した。KYOさんの和太鼓教室でさらに腕を磨き、社会人になって自身の和太鼓チームを旗揚げした。
チームの練習拠点になっているスタジオで、今もKYOさんの指導を仰ぐ。藤本さんは「(KYOさんは)師匠でありお兄さんであり恩師」と信頼を寄せる。
そのKYOさんも震災直後は「音楽に何ができるのか」と悩んだ時期があった。物資を届けた避難所で慰問演奏のため太鼓を鳴らすと「地震の地鳴りを思い出すから」と止められた。やりきれない思いが募った。
「雄勝の子どもに太鼓を教えてほしい」と要請を受けたのはそんな頃だった。「音楽で誰かに必要とされたことが救いになった」(KYOさん)といい、仲間とさまざまな復興支援プロジェクトに取り組み始めた。震災で犠牲になった子どもの鎮魂を願い、毎年5月5日、東松島市大曲浜で数百匹のこいのぼりを泳がせる「青い鯉(こい)のぼりプロジェクト」もその一つ。のちに藤本さんもイベントの和太鼓演奏に加わるようになった。
被災地を音楽で元気にしようと、さまざまな種をまいてきたKYOさん。朔之音に「花で言えば、まだつぼみ。どんどん成長し、これから花を咲かせるはず」と期待を寄せる。
震災後の14年間を「太鼓に救われた人生」と振り返る藤本さんには今、胸に抱く思いがある。「つらい思いをしたり悲しんだりしている人を、今度は自分の太鼓で元気にしたい」
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