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かつて あのまちは (6・完)石巻・雄勝 自然の恵み、ぜいたく 山下憲一さん

自宅跡地に立つ山下さん。現在は水産会社の製氷設備が設置され、後方には巨大な防潮堤がそびえる
山下さんが営む金物店前も通った雄勝小の交通安全パレード=2008年4月15日

■山下憲一さん(77)=石巻市二子2丁目=

 雄勝のここら辺は3地区。伊勢畑、それと下雄勝と上雄勝。家は伊勢畑で金物店をやってた。役所があって、あとは造船所。ちゃっこい時は造船所が一流企業みたいなもんだった。カツオ船で有名だったね。

 あの頃の船は全部手作り。硯上山から大きなケヤキ積んできて、製材して。大きな船だもんの。進水式の時は必ず餅巻きに行ってた。やるときは分かるからね。一升瓶ぶら下げて、船主が来てやるから。

 カツオ船でもサンマ船でも、必ずここの港に入るんだよ。そんで親戚の船員が竹かごにカツオを10匹ぐらい入れて持って来ると「またカツオ食わなきゃねえのかい…」って。この辺の人は、魚はもらって食うもんだと思って育ったな。

 山では梅とか巴旦杏(ばたんきよ)とか。よく行って、ただでもらったりしたね。前は海、後ろは山でしょ。本当にぜいたくなくらい恵まれてたね。だから今でもみんな、ワカメとかメカブの時期になると買いに来たり頼んだりして、昔みたいに食べたくなんでね。私もそうだけどね。

 学校は雄勝小。すぐ海岸だから、よく釣りっこして遊んでた。さおなんかないから、糸に石こ結んで、針つけて。この辺掘ると出てくるゴカイつけて投げたわ。釣れたのはアイナメが多かったかな。

 小学6年の時、チリ津波あったでしょ。ここは防潮堤も何もない。海から砂利道になってた。私の家は少し高くなった所にあって、朝の6時半に起きて2階から見たら、海の水が全然ないんだよ。

 湾がすり鉢みたいになって、底がどろどろだった。あれにはびっくりしたね。スレートの石を擦ったりする個人や工場が何十年もやってたから、その泥だと思う。ほんでみんなバケツ持ってさ、逃げ遅れた魚、ピチピチ拾ってた。

 高校卒業してから、でっち奉公で石巻に行ってたんです。雄勝に帰ってきて3年後かな。伊勢畑から上雄勝に移動して。27歳から震災まではずっとあそこで。

 上雄勝って店が多かったんですよ。メインストリートで30軒以上あったかもな。花屋さんは2軒も3軒も同じとこにあったりね。上雄勝だけでガソリンスタンド2軒もあったからね。

 伊勢畑の役場から雄勝小までは1本道。店やってる若い人で、店の前に春夏秋冬の花飾ることにしてさ。春は桜、青葉にもみじ、冬はお正月用の飾り物の大きいやつね。ずっとやってたんだけどね。

 トンネル抜けたところに大きなすずりあるでしょ。雄勝はすずりの町だってことで作ったのさ。それが1984年の9月。商工会の青年部長やってたもんだから。

 野球がうんと盛んでね。上雄勝はクラブチームが強かった。「オーシャンクラブ」って、雄勝では一番古かったんだよ。町長杯から体協杯から、あらかた優勝してた。

 22、23歳で入って、何とかして打てねえかなと思ってさ。造船場の船のへさきにロープ垂らしてさ。タイヤぶら下げて、竹バッドでたたくわけさ。したら近所の人さ「あそこの息子、バカでねえのか」「夜になってもボンボン…」。ほんでもやったのさ。年になってからも「600歳野球」で続けて。私も凝り性だからね。

 震災後は二子に移った。今でも思うのは、夕方に雄勝から帰ろうとトンネルくぐると、「なんであっちさ帰んなきゃないんだ」ってさ。60年もここにいたんだもん。今は前向きに進むつもりでもいるし、もういいんだけども、やっぱ昔の思いってのは、頭の中に残ってるね。

【山下憲一(やました・けんいち)さん】 
 1947年11月石巻市雄勝町生まれ。1969年に父親の後を継ぎ、伊勢畑地区で金物店「あさじや」を経営。72年に上雄勝地区に移転し、震災の津波で自宅兼店舗を失う。同市の二子団地で住宅を再建。87年の設立当初から雄勝文化協会会長を務める。

(漢人薫平)

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