早坂文雄(はやさか・ふみお)さん―落下傘装置を改良(大和町)―空に目を向け 獄中研究

 20世紀は飛行機の世紀だった。1903年、ライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功し、航空技術が目覚ましい進歩を遂げた。その開発史の一角に名を残した青年がいる。東京帝大で学んだ大和町出身の早坂文雄(1907~32年)。落下傘装置の特許を取り、命に関わる重要装置の改良に寄与した。
 航空機からの降下や物資投下の際、傘のように布地を開いて落下速度を緩める落下傘。早坂は、生地が開かなかったり展開時に裂けたりした従来の製品を改善。圧縮空気を利用し、確実かつ円滑に開く落下傘を考案し、32年6月に特許出願した。
 発明が認められ、特許局長官名で特許証が発行されたのは33年12月。だが、その証を手にすることはなく、32年9月、釣りに出掛けた川で誤って深みにはまり、25歳で落命した。
 大和町史下巻と、同町のまほろばまちづくり協議会が2004年に発行した「まほろば百選-未来への伝言」(第2刊「人物編」)に描かれた軌跡だ。
 早坂が眠る昌源寺(大衡村)の墓碑銘に痛惜の念が刻まれている。
 <宏遠の志を抱ける青年>
 <嗚呼享年二十六 君資性温良頭脳明晰在学中に儕輩を凌ぐと聞く>

 早坂は大和町吉岡で酒造業を営む家に生まれ、旧制仙台二中、二高を経て1928年、東京帝大文学部に入学し「新人会」にも入った。治安維持法が成立し、海の向こうではリンドバーグが大西洋の単独無着陸横断飛行に成功した頃だった。
 新人会は、大崎市出身の政治学者吉野作造の弟子たちが結成した学生の思想運動団体。当初、大正デモクラシーの一翼を担うが、次第に社会主義志向が顕著になる。軍国主義の台頭で思想弾圧が強まり28年、大学当局に解散を命じられた。
 それでも活動を続けた早坂は「共産党の故を以て」(墓碑銘)29年、市ケ谷刑務所に収容された。落下傘の研究は獄中で行われたといい、32年4月の仮保釈後に特許出願し、帰省先の古里で不慮の事故に遭った。
 落下傘は太平洋戦争直前の40年ごろに量産化が始まったとされる。開発の黎明(れいめい)期、社会変革の志を抱いた青年が関わった理由は何か。利用目的は。獄中研究はなぜ可能だったのか-。

 1月、歴史を感じさせる早坂の生家を訪ねると、早坂の実弟芳雄氏(故人)の長男尚志さん(66)が特許局長官名が入った特許証や解説図といった出願書類を見せてくれた。しきりに謙遜し「詳しい話は聞かされませんでした。(生前の活動が)タブーだったのかもしれません」と語る。
 まほろばまちづくり協議会長を務めた町文化財保護委員会会長の佐々木末治さん(83)は言う。「制約の多かった時代、大空に目を向けて実績を残した人がいた。町の誇りです」
 早坂が学んだ20年代後半の東京帝大には、蔵相や外相を歴任した愛知揆一(07~73年)や仙台市長を7期務めた島野武(05~84年)がいた。
 早坂がもう少し長生きしていたら。「まほろば百選」の取材ノートにこんな一節がある。
 「彼を知る人は、早坂文雄がいたら、学友愛知揆一と手をとりあって、世の中をもっとよい方向に導いてくれただろうとなげく。大和町、いや日本の多大なる損失であった」
(富谷支局・藤田和彦)

[メモ]大和町史の早坂文雄に関する記述は、町史執筆陣の1人だった芳雄氏が担当。「まほろば百選」では、まほろばまちづくり協議会員の斎藤照子さん(故人)が芳雄氏夫妻(同)に取材、元町文化財保護委員会会長の吉田清孝さん(同)の協力を得て執筆した。

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みやぎ 先人の足跡

 私たちの暮らす現代社会の豊かさは、先人たちのたゆまぬ努力と強靱(きょうじん)な意志、優れた知性や感性などに支えられ、長い年月をかけて育まれてきた。宮城の地域社会に大きな影響を及ぼしてきた人々の足跡をたどり、これからの社会やおのおのの人生をより良くするヒントを学び取りたい。

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